完全アナログでメモを書き溜め始めた話
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はじめに
完全にアナログな手法でメモを書き溜め始めた。ペンを使って頭の中の様々な考えを紙に書き殴り、クリップでまとめて置いておくことを始めた。きっとこの情報化時代にわざわざアナログな手法でメモを取るなんて時代錯誤的だと思われるだろう。もしかすると、そもそもメモを書き溜めるという行為自体にツッコミが入るかもしれない。この記事では、なぜメモを書き溜めるのか、なぜアナログな手法を選んだのかについて述べるとともに、そもそものメモの役割や書き溜められたメモの価値、既存のメモツールの私が思う弱点についてまとめる。
いつか役に立つことを願ってメモを書き溜める
話の腰を自ら折るようで恥ずかしい限りだが、メモを書き溜めることについて、私はそこまで深い動機は持っていない。むしろ持っているのは願いや祈りに似た、「私のこの考えが有益なものでありますように」という気持ちだ。頭に浮かぶ様々な考えを、そのまま時の流れとともに流したり、SNSのタイムラインに流したりすることに、若干のもったいなさを感じたのだ。
今、私は日々を無為に過ごし、ただただ時間を浪費してしまっている。闘病生活というていで無職をやっている。何かを成し遂げることはなく、生み出しているものといったらSNSへのお気持ち表明くらい。このような状況に危機感を覚えつつも具体性のある対策に乗り出せていない怠惰な私は、このように祈るのだ。「このお気持ち表明が有益で、いつか何かの役に立ちますように」と。
世の中の人々はおそらく、もっと違った思いでメモを書き溜めていることだろう。自らの想像力を無限大だと信じ、その想像を余すことなく活かすため、とか。逆に自らの想像力の乏しさを自覚し、思いついた数少ないアイデアを無駄にしないようにするため、とか。それらの考えに基づいてメモを書き溜めることは悪いことではなく、むしろ立派だ。私もそういうことをこの章に書きたかった。
メモは書きやすいが読みにくく、溜めるには不向き
さて、理由は何であれメモを書き溜めることを決めたのだ。次点で問題となるのが、どのようにメモを書き溜めるか、ということだ。今の時代は良くも悪くも選択肢が多い。紙に書くのか、パソコンで書くのか、スマホで書くのか。あの有名アプリを使うのか、こっちのWebサービスを使うのか。そもそも書くのではなくボイスメモとして保存して、AIに文字起こししてもらうという選択肢だってある。それら多くの選択肢の中から私は、完全にアナログな手法として紙に書き残していくことに決めた。メモの本質を考えた結果としての判断だ。
では、メモの本質とはなんだろう? メモの価値とはなんだろう? これは、メモに何ができて、逆に何を苦手としているか、そしてメモと似ている存在との境界線を考えるとわかってくる。
メモは「文書」とはあまり呼べないものだ。読み手のことを想像し、読むうえで必要になる事前知識を整理し、読みやすいように、そして(他の文書から参照などの形で)再利用しやすいようにまとめられたものではない。読者は自分自身だから、事前知識なんて整理の必要もない。読みやすさは多少重要だが、自分が読むのだからだいぶ妥協できる。そして、再利用しやすいように整備するのはコストが高いが、メモとはそのコストを支払う必要のないものだ。メモとは気軽に書くもので、後のことを考えて気を回すものではないのだ。
後のことを考えずに気軽に書くメモ。それが苦手としているのは、後から利用しづらい点に尽きるだろう。「自分さえ読めればいいんだ!」というのは一見理にかなっているようだが、実際にはそれはメモを書き捨てる場合に対してのみ言えることで、メモを書き溜める上では問題になる。「未来の自分を他人と思え」という話がある。ADHDの人に対する忠告として。また、よりよいプログラムを書きたいプログラマーに対する助言として。この話は何に対しても言えることだと私は思っている。書き捨てる予定だったメモが意外と生き延びてしまい、日が空いてから確認したら何が何やらわからなかった、というのはおそらく誰しも経験したことがあるだろう。
メモは、良くも悪くも文書ではない。しかしメモは悪いものではない。というのも、メモなしに文書を書くことはできないか、とてもやりづらいからだ。何もないところから頭を働かせて文書を書き上げるより、たたき台としてのいくつかのメモがある上に書いていくほうが効率はいい。出来上がる文書の品質もいいはずだ。書き溜められたメモはその時々の実際の思考に根ざしていて、文書を書こうと思ってひねり出したものではないからだ。そして文書は、様々なことに気を回して書くため気軽なものではないが、それゆえに読みやすくまとめられたものだ。
メモと文書の混同は、かえって事態を複雑にする
溜めるには文書が向いている。しかし書くのはメモのほうが手軽だ。ではどちらを選べばいいだろう? 私はこの問いにこう答える。——どっちも選べばいいじゃない! メモは文書の代わりにはならず、文書はメモの代わりにはならない。これは冷静に考えると当然のことで、この記事でもここまで順序立てて説明してきたことだが、残念ながら世の中にはこの両者を混同しているものが多くある。
例えば、ScrapboxというWebサービスがある。これはリンクによってメモ同士を繋げることで巨大な一つの知識ベースを作り上げるというコンセプトのもので、なんと、メモはそのままWeb上で公開できる。これは個人的な経験だが、Scrapboxで公開された情報に世話になったことはほぼない。まったくないわけではないが、数少ないそれらの経験を振り返ると、そのとき読んだメモは十分記事としても通用するほど整理されたものだった。つまり、Scrapboxらしくないものだった。純粋に自らのために書いたメモが他の人の役に立つことはあまりなく、同様に、未来の自分自身の役に立つことも少ないと私は考える。メモをそのまま公開用の文書とする行為に、私は価値を見出だせないでいる。
例えば、NotionというWebベースのメモアプリがある。Notionは「コンピューターの登場によって文書の作成や管理の仕方は変化したように見えて、実際にはタイプライターとファイルキャビネットでやっていたことがそのまま電子化されただけだ」と豪語し、オールインワンなワークスペースとしてあらゆるすべての情報を集約できることを自称している。他のメモへのリンクを含んだメモが書け、書いたメモにはタイトルやタグを付けることができ、それらの情報をもとに表として一覧で表示できる。非常に多機能で自由度の高いアプリだ。
……が、実際のところこれらがありがたいものかは判断が難しい。私達が本来したかったことは、備忘録として、忘れることに備えて記録することであり、記録したそれらをこねくりまわすことではなかったはずだ。悪意のある言い方をするとこれは、情報を咀嚼し反芻し消化することに対して、皿の上の情報を箸で突っつき回すようなものだ。……流石にこの言い方は極端だが、単純にメモを書くだけのことがしたかったことを考えると、無駄に物事を複雑にしてしまいかねない多機能さをNotionは持ってしまっている。確かにオールインワンの「オール」に、メモ書きは入っている。しかし、せっかくだからと多くの機能を活かそうと多くのマイルールを定め、いちいち作法を気にしてメモを書かなければならない状況を作ってしまった場合、手軽さが失われてしまう。メモにあって文書にはない、最大のメリットが失われてしまうのだ。
Notionはシンプルなメモ書きには強力すぎる。あえてシンプルな使い方をすることも、そう決意すれば不可能ではないだろう。しかしそのような決意が、「多機能さを存分に活かさないなんてもったいない!」という考え方を前に、どれだけの間維持できるだろう? Notionを活用していると自称する一部の意識の高い人々は、熱心にあなたを焚き付けてくる。そしてそのバックには常にNotion公式がいるだろう。
また、一部の賢い人達は、自分の1つ目の脳みそが情報でいっぱいになったことを受けて、Obsidianというメモアプリを使って「第2の脳」としてメモを書き溜めようとする。私は1つ目の脳みそで事足りているので彼らの気持ちはわからないが、書き溜められたメモが情報源として機能するかは謎だ。
彼らは、脳が、小さな情報を他の様々な情報と結びつけることで記憶していることを根拠に、相互に参照し合うメモによるネットワークを構築しようとしている。しかし個人的には、脳に対して非常に低速なメモネットワークを参照しなければならない場面で、脳と似たアーキテクチャが通用するかは疑問視している。メモネットワーク上をいちいち辿っていくより、文書としてデフラグされたものに対するインデックスを脳内に張っておくほうが効率的なのではないかと感じてしまうものだが……。
メモはメモでしかない。過信せず定期的に整理しよう
メモとはあくまでメモであって、そのままの状態で長期間にわたり溜めておくものではないというのが私の考えだ。ゆえに、ある程度考えがまとまったタイミングでそれらメモは消化し、文書として整理するべきだろうと考える。これはつまり、メモの書き方にこだわる必要はないということ。逆に言うと、「こだわらないというこだわり」を持つべきだということ。世の中のメモツールは自身を売り込むためか事態を複雑にしようとしてくるが、それに対し「私はこだわらないのだ」と突っぱねられるくらいのこだわりを持つべきだと考える。
私がデジタルの多機能なメモツールを使わず、すべてをアナログで済ませるという選択をしたのは、こだわりたくてもこだわれない状況を作り出すためだ。アナログは何かと面倒が多い。正規化もできなければコピペもできない。あとから訂正したり書き足したりするのも大変だ。けれど、それで問題ない。なぜならこれはメモだから。
A4サイズの裏紙をハサミで切って4分割。最低限の管理のために左上に連番を、右上に日付を書き、あとは適当に思考を垂れ流すだけ。きれいにまとめる必要はない。色を使い分けたり、下線を引いたり、付箋を貼ったり、記号を使ったりする必要はない。どうせこれは、いつか文書を書くときのたたき台として消化されるのだ。腹の中に入ってしまえばどれも一緒だ。
この記事のタイトルは「完全アナログでメモを書き溜め始めた話」だ。ここまで偉そうに講釈を垂れてきたが、実際には私は書き溜め始めたばかり。5日で50枚。この記事を書くことで1枚消化され、残り49枚。49枚のメモは意外と質量があり、今後増減しつつも少しずつ増えていくだろうことを考えると目録くらいは作るべきかもしれない。こだわりだすと本末転倒だから、少しでも面倒だったら手を抜くとしても。