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私が好きでやったことが他の人のためにもなったらお得かも!

「誰かにとっての原爆」を私は嫌いでありたい

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第二次世界大戦下で原子爆弾の開発を率いたロバート・オッペンハイマーについて取り上げた映画『オッペンハイマー』がアメリカで流行したとき、SNS上では、同時期に流行していた映画『バービー』と合わせた「バーベンハイマー」というミームが生まれた。これは、派手な爆発や火災を背景に『バービー』の登場人物たちがはしゃぐ画像を投稿するもので、『バービー』の公式アカウントが好意的に反応したことをきっかけに日本で物議を醸した。唯一の被爆国である日本にとって、原爆を美化することは信じ難い所業だった。これは日本とアメリカで原爆に対する意識が大きく異なることを象徴する出来事と言えるだろう。

しかしここで容易に推論できることとして、

  • チェルノブイリや福島での原発事故を知っている人であれば、たとえアメリカで生まれ育った人であったとしても、少なくとも原爆による放射能汚染の恐ろしさは理解できそうなものだ。
  • また、ロシアによるウクライナへの侵攻について、ロシアがそのときまさにしていた核兵器による威嚇がどういう意味を持つのかを少しでも考えたことがあるならば、少なくとも核爆発をエンターテインメントとして楽しむなんてことはできないはずだ。

アメリカと日本とで立場が違うというだけでは、これほどの価値観の違いを説明できないようにも思えた。原爆を投下した国と、投下された国。冷戦時の軍拡で核兵器を抑止力として量産した国と、非核三原則を固持する国。これほどの価値観の違いが文化的な違いだけで生まれるのかわからない。

日本人である私とアメリカ人である彼らでは何が違うのだろう? もし私が彼らと同じ環境に置かれていたら——私もアメリカで生まれ育ったのなら、私も原爆を「かっこいい兵器」として楽しめる人間になっていたのか? 私が楽しんでいる物の中に「誰かにとっての原爆」がないことはどう確認すればよいのだろう? 私は人間として原爆を楽しむ彼らが理解できない。同時に、私は人間として誰かにとって許し難い「楽しみ」を享受したくなかった。