先入観に基づく配慮の空回りは侵略的か?——「マイクロアグレッション」に対する違和感
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現代では多様性尊重の観点から「先入観」が悪いものであるとされている。しかしそもそも先入観というのは、「きっと相手はこういう人だろう。だからこういうことをしよう/こういうことはしないでおこう」という、円滑なコミュニケーションを実現するための思いやりの産物であると捉えられるはずだ。
先入観が良くないものであるという論理は、「マイクロアグレッション」という言葉によくあらわれている。これは例えば、男性に対する「彼女いるの?」や女性に対する「彼氏いるの?」という質問が、同性愛者に対して与える疎外感・戸惑いのことであるとされる。ほとんどの場合、話しかけた側に悪意はない。しかしこれは異性愛こそが普通であるという先入観が、マイクロアグレッション=小さな侵略となっているのだと説明される。
しかしここで立ち止まって考えるべきは、話しかけた側からしてみれば、これは、
- 「あなたと恋バナがしたい。あなたに意中の相手がいるか知りたい」という気持ちがあったうえで、
- 「異性愛者のほうが統計的に多い。同性愛者は性的少数者であり、少数だ」という事実から、
- 「だったら、傷つけない円滑なコミュニケーションのために、確率が高い方=あなたが異性愛者であるという方にベットしよう」
という行動であると言える。
もちろん、話しかけた側もよりニュートラルな言い方を使うという配慮をすべきだっただろう。「パートナーはいるの?」とか「気になっている人はいるの?」と聞くこともできたはずだ。
しかし、話しかけられた側にできる配慮もある。ここで話しかけられた側がすべきなのはきっと、「自分は“前提”から外されている」とか「それはマイクロアグレッションだ」と訴えることではなく、対話をすることだろう。その人の顔に「私は同性愛者です」と書かれているわけではないのだから、伝えようとしなければ伝わらない。「実は同性が気になっていて」とか「この話はやめておきませんか」とか、言えることはあるはずだ。
相手のバックグラウンドがわからない中でも相手に寄り添おうとしたとき、常識や統計的情報に照らして推し量ることが必要になる。しかしこういった配慮をも「先入観」という言葉でくくって非難の対象としている風潮がある。配慮の空回りを「アグレッション(攻撃・侵略)」というように表現するのが、その典型例だ。悪意のない言動まで攻撃とみなし、会話の意図や前提を無視し、「攻撃者 vs 被害者」という構図を作るのは、多様性尊重の反対を行くものだと考える。感情的で、独善的だ。
多様性とは文字通り多様な性質のことであって、対話なくして理解できるようなものではないはずだ。しかしマイクロアグレッションという言葉によって押し付けられる「無知=攻撃」という構図は、対話による無知の脱却の機会すらも否定するようなものだ。多様性の尊重とは「誤りを指摘し合って罰する文化」ではなく、「違いを受け入れ、学び合う文化」を作ることのはず。相手を思いやることが大事であることは当然として、思いやられる側がやんわりと自身の価値観を伝えることも重要で、そしてその思いやりが相互に行われることが健全だと考える。