スマホは別にテレスクリーンじゃないだろ
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ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場するテレスクリーンを「まるでスマホのようだ」と評することには無理があるように感じる。テレスクリーンはテレビのように番組を放映し、それは表面的には、スマホという情報端末と似通っている。しかし本質的な機能やそれによってもたらされる負の影響には、大きな違いがあると考えるのが自然だ。
テレスクリーンで放映されるものを市民が選ぶことはできず、それは完全に全体主義実現の道具として、国家による一方的な情報発信(プロパガンダ)と監視に使われている。一方でスマホは、私達が自由に情報を取捨選択できる(ということになっている)もので、私達は合意のもとパーソナライズのために自身の情報を提供している(ということになっている)ものだ。
実際のところスマホでの情報の取捨選択は自由意志に基づくものとは到底言えない。「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」などと言われる、自分にとって都合の良い情報に囲まれた状況が、エンゲージメントを最大化しようとするレコメンドアルゴリズムによって作られている。
現実に問題となっている陰謀論などは、この「自分にとって都合の良い情報に囲まれていること」を自覚できないまま、あたかも「私は自由意志に基づいて情報を取捨選択しているのだ」と思い込んでしまうことに起因すると考える。「私は考えなしにこの意見に賛成しているわけではない。むしろ考えなしに政府を信じている人たちこそが愚かなのだ」という考え方をしているのが陰謀論者であると考える。
つまりテレスクリーンが象徴するのは「常に正しい体制を熱狂的に支持する市民」という全体主義的ディストピアであり、スマホが象徴する現代社会のディストピア的側面は「間違っている体制に反旗を翻す善良な市民」といういかにも民主主義的なものだ。全体主義的ディストピアがその主義通り一つの大きなムーブメントとしてのディストピアであるのに対し、陰謀論ベースの民主主義的ディストピアは社会を分断し、二極化させるものだ。
これは「支配者なきディストピア」とも言えるだろう。人々が「見えざる支配者」を妄想し、それに対抗しようとすることで、結果的に社会が混乱し、自己破壊的な状態に陥るのだ。このディストピアでは、「敵」とみなされた者たち(政府、科学者、メディアなど)が悪とされ、反対に「目覚めた人々」が善とされる。しかし、それは単なる幻想であり、実際には誰も社会を支配しているわけではない。人々の分断と不信感が自己増殖し、最終的に統制不能なカオスが生まれる——それが現代の価値観に基づく、もっともらしいディストピアだろう。
以上より、テレスクリーンとスマホをその情報メディアとしての表面的な類似性によって同等なものとみなすことは、ディストピアに対する正確な分析とは言えないと考える。少なくとも、『1984年』が現実の社会不安が高まるたびに売れているからといって、現代社会の行き着く先が『1984年』的であると考えたりするのは早計だろう。