普通は本当に「人それぞれ」なのか?
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異性愛こそが普通であるという先入観は同性愛者を苦しめている。女性に対する「彼氏いるの?」や男性に対する「彼女いるの?」は、同性愛者に疎外感や戸惑いを与えるマイクロアグレッションであるとされる。
では「普通」とはなんなのか? この記事では「普通」を、「ある範囲において普遍的に、なんらかの基準に裏付けされる形で通っているとされたもの」と定義した。
多くの辞書で「普通」とは、「ありふれていること」、言い換えると「普遍的に広く通っていること」を意味するとされている。
普通
特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
そして、多様性尊重の文脈では、「あなたにとっての普通が他の人にとっての普通ではないかもしれないよ。無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)があるかもよ」と諭されることがある。
しかしここでもう一歩深く考えるべきこととして、そもそもここで使われた「普通」という言葉が、「あなたにとっての普通」であるかどうか明らかにすべきだと考える。
同性愛者に対し異性愛者の数は多いとされている。ゆえに同性愛者は性的少数者と呼ばれている。普遍的に広く通った価値観としては、恋愛対象は異性である。……これを「異性愛は普通である」と表現した途端に「諭され」が発生するのはいかがなものだろう。これは、多様性の尊重された社会を標榜する人を含む人々が、「普通=正しい」「普通=優位なもの」という別の価値観を暗に働かせていることのあらわれだと考える。
この価値観を働かせてしまうことはある程度は仕方がないだろう。普通を「変わっていない」と定義したとき、普通でないものは「普通なものに対して変わっている」となり、これは普通を基準としている。普通を「当たり前である」と定義したとき、「当たり前」という言葉には「そうあるべきだ」というニュアンスも含まれているから、普通でないものはあるべき姿からの乖離となる。
当たり前
- そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま。「怒って—だ」
- 普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり。「ごく—の人間」「—の出来」
普通という言葉は使いづらいのだ。
しかしここで、例えば「普通とはそれぞれが持った物差しである」とか「普通とは多義的だ」と定義することは本質的ではない。十分に客観的な尺度に基づいて定義された普通も存在する。日本における異性愛は統計的に見たとき普通だ。
「あなたにとっての普通」というのは、より正確な言い方をすれば「あなたの周りという限定的な社会において十分に客観的な尺度に基づいて定義された普通」となるだろう。普通が人によって異なるというより、普通の定義に使われた「限定された範囲における客観」が異なると捉えたほうがわかりやすい。
そしてこれを突き詰めると、客観に“完全”が存在しないこと、普通に“完全”が存在しないことが見えてくる。日本では左側通行が普通だが、アメリカでは右側通行が普通だ。しかしここでいう「普通」とは人それぞれなものではなく、それぞれの国で客観的に定義されている。ここでいう「それぞれの国」が「限定された範囲」に相当する。
日本における異性愛は統計的に見たとき普通である。——これは、「日本」という範囲で、「統計」に裏付けられた客観によって、「異性愛」を「普遍的に通ったもの」であるとしている。よって、普通という言葉を使うときには「それがどの範囲におけるなんの基準に裏付けされた普通」であるかを明示することが好ましく、同時に普通という言葉を聞いたときにはその部分を意識すべきとなる。
普通という言葉は使いづらいが、たとえ他の言葉を使ったとしてもこの部分を整理することは重要だろう。盲目的に「普通」という言葉を否定するのでは、ただの言葉狩りにしかならない。盲目的に「普通」という言葉の意味を増やすのでは、その背後の本質は整理されない。普通の曖昧さを減らそうとする意識が、世間で“普通”になってくれるとうれしい。