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私が好きでやったことが他の人のためにもなったらお得かも!

フリーミアムへの葛藤。あるいは消費活動の意義について

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現代社会は「基本無料」であふれています。

例えば私が何らかの事柄について「あれってなんて言うんだっけ?」と興味を持ったとしましょう。Googleでそれを検索すると、「それってこれのことじゃない?」とWikipediaのリンクが提示されます。私はそこからWikipediaで項目を読み始めます。さらに気になることがあったら別の項目を読んでみたり、Google検索をしてみたり。

たとえ英語で書かれていても、機械翻訳サービスを使えば意味くらいはわかるものです。ブログ記事を読んだり、YouTubeの解説動画を見たり、ChatGPTと話して認識を確認したり。疲れたら息抜きとしてソシャゲでもやりましょう。最近のソシャゲは思いの外やり込み要素がしっかりあって、無課金でも十分に楽しめます。

現代社会は「基本無料」であふれています。Googleも、Wikipediaも、機械翻訳サービスも、ブログサービスも、YouTubeも、ChatGPTも、ソシャゲも基本無料です。そして、基本以上のことをしない人にとって、つまり私にとって、これはほとんどすべてのものが無料で提供されていることを意味します。便利な世の中ですが、最低限の充足を満たすフリーミアム社会には虚無感もありました。

誰しも所有する資産には限界があり、本当に支払うだけの価値ある用途を見極める必要に迫られています。しかしこのとき、最低限の衣食住や情報的・社会的・娯楽的インフラが保障されていたなら、「別になくても死にはしないな……」という思考によって、すべての消費活動が「追加の消費活動」に位置付けられてしまいます。先行きが不透明であるなどして不安を感じる環境ではことさら、最低限以上に生活の質を高めるような消費活動はすべて「贅沢」となり、意欲が湧かないのです。

かつて「お金を払うこと」は、対価として何かを得るだけの行為ではなく、「自分の選択に意味を与える行為」でもあったでしょう。映画館に行く、本を買う、ライブに行く——そこには金銭的コストがあるからこその、特別な期待や充実感が伴いました。しかし今や、無料でできることで満ち溢れているがゆえに、「わざわざお金を使う意味が見出せない」という逆説的な虚無に直面するわけです。

無料で済んでしまうことが日常になった今、価値と金額の相関は崩れてきています。

フリーミアムの利便性をただ享受することに、私は葛藤を抱いています。基本より高度なことをせずお金を落とさない私は、提供者の想定する優秀な顧客ではない……と考えてしまうのです。本来はこのように考える必要はありません。なぜなら無料で提供されるものはそれ自体が広告的・試供品的特徴を持ったものだから。気に入り、お金を払いたいと思った人だけが払えばいい。それでビジネスはうまく回っているのです。

フリーミアムとは、名前がつけられるほどに一般的なビジネスモデルです。もしこのモデルで破産でもしたなら、それはビジネスの失敗です。市場予測の失敗であり、消費者を惹きつけられなかっただけ。消費者の責任ではなく、私の責任でもありません。……だというのに私は、無料枠に収まる私自身に葛藤を抱いています。

「もらってばかりでは悪いのではないか」とは、すべてのことに対価を払うべきという旧社会の前提に照らしたときの戸惑いです。「実際自分は顧客としては不十分な存在だ」とは、提供者の視点に立って私自身を見つめ直したつもりになったときの呵責です。「私は基本の範囲に収まって、真にサービスに貢献できてはいないのではないか」とは、お金を払ってより高度なサービスを受ける人と自分を比較していだく羞恥です。

もちろん、現代社会で人々がお金でしか繋がり得ないわけではありません。それを如実に表したのがほかでもないこのフリーミアム。しかし、「お金という価値あるものによってつながっている社会に、凡庸な私だけが所属できていない」という孤独感、「最低限以上に生活の質を高めたいけれども、何に価値があるのかわからない」という戸惑いが、私に大きな葛藤をもたらすのです。